夕方が一日でいちばんいい時間なんだ――カズオ・イシグロ『日の名残り』(土屋政雄訳)

平凡で、真面目で、ロマンチストで…自らの執事としての「品格」を疑うことなく生きてきたスティーブンス。
きっと第二次世界大戦以前の、大英帝国がまだ栄華を誇っていた時代であれば、そのまま何の疑問も抱かずに生き抜くことができたのでしょう。
でも、戦争の終結とともに社会構造が大きく変わり、変わりゆく時代について行けず取り残されようとしている。しかもそのことに気づいた今、自分は老い始めている。

なんて恐ろしいんだろう。

品格ある執事の道を追求し続けてきたスティーブンスは、短い旅に出た。美しい田園風景の道すがら様々な思い出がよぎる。長年仕えたダーリントン卿への敬慕、執事の鑑だった亡父、女中頭への淡い想い、二つの大戦の間に邸内で催された重要な外交会議の数々-過ぎ去りし思い出は、輝きを増して胸のなかで生き続ける。失われつつある伝統的な英国を描いて世界中で大きな感動を呼んだ英国最高の文学賞、ブッカー賞受賞作。 (楽天ブックス より引用)


作品情報

『日の名残り』

著者:カズオ・イシグロ
訳者:土屋政雄
発行年月日:1990年7月77日
出版社:中央公論社

感想

★★★★★
図書館本

私もスティーブンスのように自分に都合のいい面しか見ないタイプの人間なので、自分の行く末を見せられているようで心が締め付けられる思いでした。

スティーブンスは自分の選択が間違っていることに薄々気付きながらも、それを認めるのが恐くて見て見ぬふりをする…
そして引き返すタイミングを完全に逃がしてしまうわけです。

私、スティーブンスのこのセリフにハッとさせられたんですよね。

  卿は勇気のある方でした。人生で一つの道を選ばれました。それは過てる道でございましたが、しかし、卿はそれをご自身の意思でお選びになったのです。少なくとも、選ぶことをなさいました。しかし、私は……私はそれだけのこともしておりません。私は選ばずに、信じたのです。私は卿の懸命な判断を信じました。卿にお仕えした何十年という間、私は自分が価値あることをしていると信じていただけなのです。自分の意思で過ちをおかしたとさえ言えません。そんな私のどこに品格などがございましょうか?

この言葉には、平凡な人だからこそ味わう痛みと後悔が詰まっているように思えてならなくて。
私たちは歴史の結果を知っているので、ダーリントン卿の選択を間違いだと非難することは簡単です。
でも、ダーリントン卿は結果的にナチスに手を貸してしまったとは言え、死者に鞭打つような行いを良しとせず、最後まで紳士たろうとしたわけで…
厄介ごとに巻き込まれないように何事も深入りしないことを信条としている私と比べれば、よっぽど立派な人物だと思いますよ。ホント。

それから、スティーブンスも。
桟橋で出会った元執事の老人の「人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ」という言葉は、私は「君も引退して余生を楽しみなよ」というアドバイスだと捉えたのですが、スティーブンスはまたお屋敷に戻ってジョークを磨くことを選択しました。最後まで執事であろうとするその姿に勇気づけられた気がします。
過去の過ちを認めつつも、完全に否定するわけではなく、向き合った上で前に進もうとする。彼の誠実さに心を打たれました。

  いいかい、いつも後ろを振り向いてちゃいかんのだ。後ろばかり向いているから、気が滅入るんだよ。……中略……そりゃ、あんたもわしも、必ずしももう若いとは言えんが、それでも前を向きつづけなくちゃいかん

これはスティーブンスだけではなく、私たちすべてに向けられた言葉なのでしょう。
静かに、だけど確かに心を動かされた一冊でした。



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